昭和四十七年五月十九日 朝の御理解

X 御理解 第七十七節
人の悪いことを、よう言う者がある。そこにもしおったら
なるたけ逃げよ。陰で人を助けよ。

陰で助けよと、陰で助けると言う事は、陰から本気で祈る陰の祈りと、形の上でも、匿名で誰がしたやらわからんようにして人を助けるような人達もあります。よく新聞なんかでも匿名で献金をするとか、どこの誰がしたか分からない、そういうのもありますけども、私はここは陰で助けると、まあそこで悪口を言われておる人があるとするなら、その人の事を陰でまあその場におったらなるだけ逃げよと、そこで陰で助ける、けれども、それが、いかに助けると言うても、やはり力なしには助ける訳にはいきません、ですからやはり力を頂かなければいけません。
 昨日、ある方から見事な筆のお供えを頂いた、この筆です、これだけの筆を、墨に浸すには、かなりの墨がすみためなければなりません。ですから結局沢山の墨をすみためておかなければならん、大きな字を書きたいというて、小さい筆で大きな字をかくことはかないません、やはり大きな字を書きたいと思うなら大きな筆にならなければならん、同時に大きな筆であるだけでもいかん、やはりこれが沢山な墨じゅるをすりためておいて大きな字を沢山書く事が出来る。
 ですから本当に修行はさせて頂く時には本気ではまってしなければいけん、もう早くそこから楽になりたいといったような、もう神様がさして下さる修行ならもう、本気でさせて頂くぞと、もうしようと思うても後では出来ない事、私共でもそれを思うです、もっともっと本当は修行でもさせて頂いとったら、もっともっとおかげを受けたであろう、力を受けたであろうと思う、なかなか修行する時には辛いですけれども、墨をする時には辛いですけれども、それこそ墨のようなまっくろい修行ですから辛いのですけれども、その事を楽しみに信心させて頂くなら、
 小さい心で大きなおかげを頂こうなんて、昨日もある方がお店え勤ております、どうでもやめたいと、話を聞いてみると結局はあんたが大きゆうなりさえすれば問題じゃないじゃないか、と私がいうた。けれども、もうそれがいやでいやでたまらん、ある人間関係でもうその人の面、見ろごとでんなか、あそこえ行ってあの人の面みらんならといおうごたる、けども今からそんなら他に職をみっけとるかというとそうでもない、それこそ次の苦労はそれよりもっとひどい苦労せんならん事が分かっておっても、もうその場の苦労から逃れたいというだけ。 
 その苦労から逃れたら楽なごたる、その事は楽なだろうけれども、もう次にはちゃんと修行とか苦労とかゆうものはね、もうその人にそれが運命なんだ、例えばこのごろ井上さん所の霊さまのお祭りの時に頂いたように、確かに死ぬるという事は、もうこの世での苦労とゆうものは、もう息のきれたその場から、痛いかゆいがなくなる、けれどもね、その霊の世界に入っての修行というのは、痛いかゆいはないけれども、もう又その瞬間から霊の修行は始まるんだという意味の事を頂いた。
 だからせなきゃならない事は、どうしてもさせてもらわにやいかん、そんなら元気な心でそれを受けていこう、その受けきっていこうとゆう事がです、受けきらせて頂いただけがあなたのものという事になる訳です。そこで教祖は陰で人を助けよとおっしやる、陰で人を助けるとゆう事のね、という事は、いよいよ自分という者を無なしゆうしなければ出来ません。売り名的な人がありますよね、〇〇教なんかそんなのが看板ですよ慈善何とかといった事で、もうハッキリ自分の宗教、それを売る為の慈善とでも申しますか、黙って人を助けるとゆう事の反対です。
 成程、それは助かるかもしれませんけれども、それでは自分自身の力にはならない。私はこの筆を出して見たときにちよっとこうみたら、なかなか安かもんじやあるな三百円であるたいと思うてみよったところが、ようとみよったら〇がいっちよ多か三千円なんです、それで私は思うですけれども、これは例えば〇一つ多いと三千円、一つ少ないと三百円、大した事ですよ、これにまあ一つ〇をつけてごらんなさい、もうこれは三万円という事になる。私共がね例えばその陰で人を助ける、陰の徳を受けるという事はね、誰も知らんそれはねだから結局自分とゆう者を無なしゆうしなければならん、自分をゼロにしなければいけない。そのゼロにするゼロが一つずつでも多く頂いとかねばいけない。
 ゼロはたった一つなんですけれども、それは十であったり百であったり千であったり万であったりゼロ一つでという程に違うのですから、もう本気で修行中にですね、そういう修行をしておかねばならないと思います。同じ修行させて頂くでも、やはりそういうのが一つふえていくと、いったような修行を本気でさせて頂きたい。けれども人間というのはなかなかそれが出来にくいものです。自分がこれだけしよるという事をやっぱ皆に認めてもらいたい。元来信心というのはね、人に認めてもらうのじゃない神様に認めてもらうというのが信心なんですから、ですから本当いうたら、そこのところをむしろ大事にするという信心、いうならば表より裏というような生き方。
 いるですよね、眼に見えない所に金がかかっているというのは、例えば建築なら建築でもけばけばしい建築は立派だけれども裏はどんどん張りといったようなのがあります。大して目立たんですけれども、その目立たない所によい例えば材木が使ってある、念の入った仕事がしてある。見る者が見るとすぐわかる。私共の生き方もそうです、もう人は知るまいけれども神様がそこを見逃しなさるはずがない、だからむしろ、そこを大事にする、百人より千人、千人よりも万人というように、人を助ける程しの力を受けた人はもう絶対人の知らない苦労、人の知らない信心修行がなされております。いわゆるこのゼロが人の知らない間に多くなっておる。
 それでいよいよふたを開けた時にはアッという間に沢山の人が助かるようになる。だからそこのところをです、むしろ楽しまれるような信心、神様が御承知の世界に生き抜く事なんだから、神様が見ておって下さるんだとむしろそれを、人が気がついてくれないほうが、うれしい、有難いんだとというそこに楽しみが持てれるような信心、私は陰で人を助けるという事はその一番大きな事だと、なかなか出来ない事ですけどね、人の悪口をいう者がようおるともしその場におったら逃げよとおっしやる。
 私はこの事を、この御理解の時にはいつも話すんですけども、もう椛目の時代でしたから、十五、六年も前の事でしたでしょか、北野の江口から婦人の方がお参りして来て、それで最近、江口から日吉さん達が姉妹で参んなさる、初めて参って来て色々お話を頂いた後で、もう最近婦人会の会合の時いつも話題になるという事がある。というのはいろんな話し合いが済んでから、ガヤガヤそのガヤガヤが何かというと必ず悪口である、というころになると、ちょつともう日吉さん達姉妹がどこかいってしまいなさる、初めの間は誰も気がつかなかったが今ごろは誰でも、それに気がつくようになった。
 けして人の悪口にはかたんなさらん、あらあん人達や金光さまに参んなさるごとなってから、あんなふうにしよんなさるという事を、婦人会の人達が話し合うごとなりました。ちよいと信心しなさるごとなってあげん変わんなさったというて、私に聞かせて下さる事があって私はとてもうれしかった。まあだそれだけ熱心にお話しを聞いた事も、熱心にお参りしとるという事もなかったんですけれども、その御理解を姉妹二人参って聞かれてから「ほんなこて姉しゃん人の悪口をいう時には必ず逃げようじやんの」とゆうような話し合いが帰る道々でもできとったんじゃなかろうか。
 それでもう人がガヤガヤと人の悪口でもいうようになると、いつどこさんいかっしゃつたじやれわからんごとして、姉妹いつもコロッとおんなさらんごとなる、そのようにしてね、例えば教えを行じておられるという事を私は聞く時にとても有難いと思うです。まああの人は合楽に参りござるげなが、とても人柄が違うとよく聞く事があります。本当に有難いと思う、取次者みよりににつきる思いがする時はそんな時なのです。
 けれども人の悪口でも始まるものならば、ほうそげなこつのと相手がどんどん話しなさる風に、もちかけてからでん悪口を聞こうといったような姿勢をとる人がほとんどですよね、おもしろい人の悪口には、なかなかいう事も聞く事もおもしろい、だからみ教えを頂くでもですね、人の悪口を聞くごたるで、聞いたら必ずおかげ頂かれるといわれております、聞き耳を立てる、昔は廊下の所に障子のしきりがありました。それで私が物音やら、やかましく言うもんですから、お参りされて私が御理解でもありよりますと、ここの障子の所にズラーッと並んで頂かれよりましたですよ、もう障子の外からそれこそ聞き耳を立てる、そういう時の方がおかげ頂くとですよ。
 それこそ人の悪口でもある時には、こうやって耳を傾けたいようなものが人間の心の中にある。それが教えを頂く時の態度になるなら立派です。もう有難いお話がありよっても、これは本当に私、体験することですけれども、ここで私が一生懸命一人の人に御理解を説きよる時にです、その後ろの方から聞きよる人がいつもおかげ頂いとるという事実があるです。これはこの人がおごられよんなさると思うんじやないでしょうか、私が一生懸命、御理解説きよる時にはそれで、人がいわれよるもんじゃから、、、そしてそのうちに、あぁーこれは私が頂かなんと今の方御理解を頂きながらおかげ頂きました。というのがあるんです。
 ですからそういう例えば頂き方と、そしてそれが人の悪口である場合にはです、その場を逃れるような心掛けが大事だと思う。そして陰で人を助けるという事、そこでそんならただ陰で人を助けるというて、陰でただ祈るというだけではいけん、先日もある方が、ある会社が破産状態という事を聞いてここでお届けをされました。全然関係がない訳じゃないです、けども、関係がありますから、立ち行くようにというお願いであった。そしたら女の方の月のものを頂いた。
 だから私がね、今は血の涙じやろうばってんか、もう必ず生みなされる力持った人じゃから、しっかり祈って下さい、願うて下さい、とその人に言うた事でした、今は倒れる寸前にある、困ったそれこそ血の涙じゃろうけれど、血の涙がある時にはまあだ生みなす力がある時なんだ、だから生みなす力を持った人なんだから、もうここで意気消沈せんように、しっかり元気づけて下さい、祈って下さいとその祈りが、どのくらいの支えになるやらわからない、私共の周囲にはそういうことがいくらでもあると思う、そん為にはただ祈っただけじゃいかん、ただ神様に陰ながら、お祈りしよりますよ、お祈りぞえさせて頂きよりますよだけじゃいかん。
 やはりそういう時こそ自分を誰も知らんのだけれども、空しゆうしていかねばならん、それがこのゼロになる、自分を空しゆうするその人のその事の為に自分がひと修行する、その人の為に、それはよし百円の金でもええ、お初穂を奉るという事は、自分を空しゆうする事です。しかもそれは陰で人を助ける働きになるのです。陰で人を助ける力がそういう信心からついてくると思う、ここでは時々皆さんしますけれども、私共昔はそれはひとつのエチケットのようなものでした、信心させて頂く者の。
 信者同志が病気でもしますと、お祈りぞえをしますお初穂を奉ります、そうすると御神米がが下がりますから、その御神米を持ってお見舞いに行くという、そうするとあの人は私の事を祈っておって下さってあるんだなという事が分かるわけでもあります。けれどもそういう祈りは大したことなか、だから私は御神米下げません、けれども他所で稽古した人達は必ず持って行くけんで下さいと言います。けれどもその持って行く者の心の状態はどこまでも、ただお見舞いにさし上げるもんじゃない、お付き合いに差し上げるもんじゃない、いかにも、その人の事を祈らして頂いておるしかも、お初穂まで奉つてお願いさせて頂いておるようであってもです。
 それはあなたがゼロを一つづつ増やしていく為の修行なのですから、問題はその人よりも、陰で祈っているその人が力を受ける事なんですから、あなたが顔が立とうが立つまいが、知ろうが知るまいがよい事なんだその事は、だからそういう陰で人を助けるという働きをむしろ楽しうなる信心、がんらい信心というものは、いわゆるそういうものでなからなければならない。神様だけが御承知であればいいという、いわゆる人には笑われても神様に笑われちゃならんという信心が毅然としてできなければならない、人の手前ばっかり作っておるような事ではです、いわゆる陰の力にはなりません。
 私共がやはり百よりも千、千よりも万のおかげを頂きたい、そんならこのゼロを一つづつ多くしていくような信心に精進しなければならない、おかげを頂かねばならんからではないけれどもです、それが楽しゆうなってくる、それがこよない有難いものに感じられる陰で人の事を祈っておる陰で人の為に修行させてもらいよる、陰でその人の為に大体な、いうなら自分の身を削るような事になりますもんね、お供えして御取次を願うという事は、それが本当に形式というもんじゃなくてですね。
 私は、これはもう高橋さんの例をいうとですね、陰で祈られるという時にはもう自分の十倍されますですね、これは高橋さんの事をあまりあからさまにいうとおかしいですが、そういう心掛けがいるんです、陰で人を助けるとゆ時には、だあれも、お前の事をおれが祈ってやよるぞなんて言うておられるものではありません、そんならだあれもお初穂の内容の事知りやしません、私と繁雄さんだけしか知らん訳です、いうならば、けれどもその事を実行されとるですね、だから真似ではいけませんけれども、結局自分の心の状態がです、本当に段々美しうならにや出来るこっじやありません、陰で助けるという事はいよいよ自分が美しゆうならにや出来る事じゃありません。
 ただいま筆の例話を持って申しましたように、大きな字を書きたいならば、たくさんの墨をすみためなきゃいかん、同時に自分が大きうならにやいけん、こまい筆で大きな字を書こうと思っても書けるはずがない、だからまず自分が大きうなって、そんなら大きうなった、同時に最後に陰で人を助けよと、助けるというても助けるからには、力なしには助かりません、その事を今日は聞いて頂いた。
 大きなおかげを頂きたい、それにはやはり大きな私になる以外ありません、そしてしっかり苦労の墨をすりためておかなければいつでも書けません、同時にそういう陰で人を助けるという陰の力というものはです、自分を空しゆうするという事、自分をゼロにして行く生き方を身につけて、しかもそのことが楽しい、その事が有難いという信心にならせて頂きたい。                         どうぞ